直木賞作家の 早乙女 貢さん が「一重孔希の狛大と陶仏」というタイトルで、「アート'91」に寄稿していますので、陶仏の表現のところを一部抜粋して、皆様に紹介します。陶仏のことがよくわかります。

「一重孔希の狛大と陶仏」より

 仏僧に仏心なく、神殿に神が宿らぬのがこの乱俗の世界だが、無仏即仏心、とでもいいたいような一重氏の作陶の心は、正にコンクリートジャングルの現代では奇の一語に尽きる。このジャングルを嫌って、会津塩川の山中に陶房を作り、自ら白石を砕き、白磁の壺を作る。だが、その本業としての作陶が数十日経ると、突然、神示を受け、この奇なる狛大をものするかと思えば、突如、仏心を得て裏庭の上を掘り陶仏を作るのである。これがまた、奇怪な面相を持った仏さまたち。俗人は称して百面相というだろう。がその表情は、数千数万に及ぶという。脳裡に浮かび出る仏さまたちは、あるいは怒り、あるいは嘆き、あるいは笑い、あるいはウィンクし、あるいは苦しみ、あるいは叫ぶ‐‐その陶仏数干数万とは、誇張ではない。実数である。五寸あまりの五喜羅漢といえよう。心に浮かぶまま、手で粘土をつかみ、瞬時におしゃもじで目鼻を描く。如何なる表情にあってもその両手は合掌して成仏しているのだ。藤森カメラマンが計ったところ、一体を作るのに平均四十五秒だったとか。ありふれた仏師や彫刻家が時間がかかるのは考えるからである。考えるひまもない四十五秒で生み出される仏様にこそ、無心無欲の慈悲の大宇宙がある。神と仏の両極が、一重氏の心に在り、その両の手は、神意を得て仏心を表現するともいえる。

 五千体にあまるこの奇妙な仏を作って床下に干しておいたら冬から春に季節の変わり目仁水道管が破裂して全部水びたしになり、下半身が溶けてしまったそうだ。それも仏心、これも仏心。掘った庭土へ、その溶け仏を全部埋めて、土に還したという。

 一重孔希氏は奇人である。私も現代の世俗に妥協しない奇人といわれているが、私以上、ホンモノの奇人である。私がいうのだから間違いない。その凡俗を超えた仏心が自ずとかたちを得たもの、これが珍なる奇なる怪でもあるその陶仏と狛大だ。世に枝巧の優れた作品は多い。が、心を打つものは少ない。況や魅せられるものは希少であり、仏心を感じるものは、他にない。醜の中にこそ、真があり善があり美があること一重孔希氏の狛大と陶仏は感じさせるのである。